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高雄山神護寺 沿革史

□ 弘法大師と高雄山寺
 空海弘法大師は宝亀五年(774)、讃岐国多度郡に生まれた。
 母方の伯父阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の侍講として、儒教をもって一家を成した学者である。
 十五歳のとき阿刀大足について論語、孝経、史伝等を学んだ空海は、十八歳で大学に入り明経科を専攻し岡田牛養、味酒浄成から学問の指導を受けた。
 後に優れた文筆活動の才能を発揮するのも、この時代に培われたものだろう。
 この頃、ある沙門から虚空蔵求聞持法を授かって、それを転機として大学を去り、霊山を遍歴して仏道に励んだ。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えることによって、すべての経典の文句が暗記できるという秘法で、記憶力を飛躍的に増進させることができる。
 空海は入唐までの空白の期間、山林修業に励む一方で、南都の寺々であらゆる経典を読破していたものと思われ、唐から請来した経典は、新訳、新来のものばかりで、しかも体系的に収集されたものだった。
 また佐伯氏にゆかりの深い大安寺で唐語を習得し自在に操ることもできた。
 東大寺で授戒した空海は、最澄とともに入唐するが、乗った船が違っていたため、二人の初対面があったかどうかは分からない。
 ただ、三筆の一人橘逸勢は、空海と行動をともにし、在唐中も交流を続けていた。
 洋上、暴風雨のため、船団は四散し、空海一行が長安に入ったのは半年後のことであった。
 年が改まった延暦二十四年(805)五月、空海は青龍寺の恵果を訪れる。
 恵果は「われ先より汝の来たれるを知り、相待つことひさし、今日まみゆるは、大いによし、大いによし」と喜び迎えたという。
 密教の第七祖である恵果から法流を伝授され、それとともに必要な経典、曼荼羅、法具などのことごとくを授けられた。
 恵果は同年十二月十五日入滅されるので、誠に得がたい出会いとなり、師の遺言に従って翌年鎮西に帰着、その後九州、四国、泉州などを経て、三年後の大同四年(809)、高雄山寺に入山した。
 その消息は、最澄から空海に宛てた八月二十四日付の経典借用状によって知られる。
 最澄は、弟子に託して空海請来の経典十二部を借覧したいと依頼したもので、手紙を弟子に託しているところから、すでに面識があったと想像される。
 それ以後数年間にわたり、高雄山寺を中心に両者の親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展していった。
 都に入った空海は、その年、嵯峨天皇のために世説の屏風を書いて献上した。
 以後天皇は空海のよき理解者となるとともに、詩文を通じてもその交友を深められている。
 弘仁元年(810)、薬子の乱が起こり、世情騒然たるうちに薬子が服毒によって自殺すると、皇太子高岳親王は、東大寺に入って出家し、後に空海の弟子となった。
 この年、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行った。
 この七日間の修法が空海によって行われた鎮護国家の修法の最初である。

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