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高雄山神護寺 沿革史

□ 神護寺誕生
 空海は灌頂の大法会が終わると高雄山寺の機構を整えつつ活発な対外活動を始めている。
 弘仁七年(816)、高野山を修禅観法の道場としてその開創に着手し、弘仁十四年には東寺を賜って、鎮護国家の道場として、その造営を任されている。
 その間の十数年にわたる活躍によって、高雄山寺が平安仏教の道場としての内容を整えてくると、これまでの和気氏の私寺的性格を格上げすることを考え、高 雄山寺と同じころに建てられていた定額寺(特定の官寺)としての神願寺を合併することを願い出る。
 そして天長元年(824)にそれが許され神願寺がこの地に移されると、寺名も神護国祚真言寺(略して神護寺)と改名され、すべてを空海に付嘱された。
 合併の際に多くの霊宝が移されたと考えられるが、現在、神護寺の本尊として金堂に安置される薬師如来立像(国宝)は、神願寺の本尊であったともいわれ る。
 弘仁九年九月には、新たに補修を加えた仏画二十四舗の供養を修したとの記録があるが、今はすべて現存しない。
 ただ、天長御願すなわち淳和天皇発願の高雄曼荼羅(国宝)は、幸いにも現存している。
 これは、唐都長安の宮廷画家李真の描いた両部曼荼羅が、空海帰朝後十八年を経て、絹は破れ彩色は剥落を生じてきたため、その尊像のすがたを正確に後世に 伝えるため、金銀泥で描かれたものであり、唐代絵画の優れた伝統を今日に伝えている。
 承和二年(835)、空海が六十二歳で高野山において入定されると、真済が後を継ぐこととなる。
 真済は十二年間山外に出ず伽藍の整備につとめ、嵯峨天皇の皇子である仁明天皇の御願によって宝塔を建立し、その内陣に安置されたのが五大虚空蔵菩薩像 (国宝)である。
 また禅林寺の開山で、実慧の弟子にあたる真紹は神護寺の銅鐘鋳造を発願するが、実現せぬまま入滅したので、その遺志を継いだ和気彜範が貞観十七年 (875)に、これを見事に完成させた。
 これらの平安朝の霊宝は神護寺が東寺、金剛峯寺に勝るとも劣らぬ地位を維持したことを示している。

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